大学一年のゴールデンウィークのことである。いや、夏休みだったかな。
とにかく私はしばらくぶりに実家に向かっていた。一人暮らしにはもう慣れていたけど、家路の風景を見ているとやはり心が安らいだ。
玄関を開けると、両親に出迎えられる。
おかえり。ただいま。
なんだか照れくさいけど、この温かさが結構しみた。
荷物を置きに自分の部屋のドアを開ける――と、宇宙人がベッドの上でダンスしていた。なんてことはもちろんなく、そこには出発前となにも変わらない私の部屋があったのだが……。なんだか落ち着かなかった。記憶と同じなのに懐かしいと思えなかった。体が硬直して、リラックスモードに入れない。
このとき私はひとつの悲しい事実を悟った――。
もはやこの家は私の帰る場所ではなくなっていたのだ。
「帰る」という言葉を使うとき、我々はどちらがホームかを無意識に選んでいる。
たとえば、家には寝に帰るだけのサラリーマンでも家に「帰る」、仕事に「行く」と表現する。これが家に「行く」、職場に「帰る」と言い出したら、いよいよいつ被害が出てもおかしくない。
まあとにかく、「帰る」は動作としては「行く」と同じだが、以下の二つの要件を目的地に必要とする。
ひとつは、他の場所よりも「本来あるべき場所」であること。
もうひとつは、その場所にいた経験があること。
なぜこんな話をしたかというと、「帰る」という動詞が今回の小説のカギになっていると感じたからだ。
私なりに解釈すると『10の奇妙な話』はいずれも「本来あるべき場所へ帰る話」だ。先ほど説明したとおり「帰る」はすでに「本来あるべき場所へ」という要素を内包する。だから「帰る話」と短くしてもいい。
一般的な感覚からすると、この意見は受け入れがたいだろう。「なにを言っているの。『帰る話』ではなく、『行ってしまう話』でしょ」と。しかし、問題はどこにねぐらがあるかではない。ベッドや布団を判断材料に使うのは、ここでは一旦なしとしよう。すると、途端にホームはどこかわからなくなる。
今、少し手を止めて、パラパラと読み返していた。
やはり、この本はいろんな読み方ができる。そのうえで、どの話でも私なりの帰還を見つけられた。
読書体験を損ねたくないので、ここでは個別の内容に踏み込んだ話はしない。
個人的には『地下をゆく舟』と『もはや跡形もなく』、『骨集めの娘』がお気に入り。
全体の空気感として、ほの暗く静かな物語が多め。帰還がもたらす結末に独特の納得感がある。納得感――それは冒頭の帰省エピソードの違和感とは対極にあるものだ。重力にゆっくり引きずり下ろされるような、大きな渦潮に絡めとられていくような。抗えない力によって、あるべき場所に帰って(返って)いく。
それから、あちこちに落ち着いたユーモアがあっていい。まったく体温が上がらないあの感じが、なんだか妙にクセになる。
こんなところだろうか。
初投稿だから、後になって読み返すと拙い部分もあることだろう。構わない、むしろ楽しみだ。私はまたここに戻ってきて、何度も白い画面とにらめっこする。ここも私の帰る場所のひとつだ。
いつの日か、自分以外の誰かにとっても、そうなったらいいなと思っている。
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『10の奇妙な話』ミック・ジャクソン 田内志文 訳 :どこに私は帰るんだろう?