ありていに言うと、物語の力を信じている。
いくつになっても、人とのちょうどいい距離感というものがわからない。いや、むしろ余計な考えなしでいられた幼年期が一番人づきあいがうまかったかもしれない。
あるときから、この世界がMMOみたいだなと思うようになった。
つまり、たくさんの人が同じ世界を共有しているけれど、それはゲーム通信でそう見えているだけで、実際にはひとりでゲーム機を握っている。
ひどく情に欠けた見方かもしれない。だけど、このくらい淡白でちょうどいい気もしている。周りにいる人たちはNPCやbotではなく自分と同じプレイヤーだということさえ忘れず、敬意をもっている限り、その思考を公開しない限り、問題にはならないはずだ。
それほどまでに、我々は同じ世界にいながら、同じ世界にはいない。
だから物語って偉大だと感じざるを得ない。
切なさをはらんだ便利な語がある。――“逆転クオリア”。
今、あなたと私の前にリンゴがある。
「赤くておいしそうだね」と言ったあなたに、「そうだね」と私が応じる。
ここで食い違いが起きている可能性があるという話だ。
あなたの語彙では、私の見たリンゴの色は赤ではなく、青かもしれない。
しかし、私がその色を「赤」と呼ぶ限り、「トマトと同じ」「熱そうな」色だと思っている限り、このすれ違いは顕在化しない。
このことを通して私が得るべき教訓は「端から同じものを見ていない人間に、自分と同じ結論を求めるな」ということかもしれないが、いったいどうして不思議でならない。
違うクオリアを持っているにしては、我々のコミュニケーションはあまりにも円滑すぎる。いや、そのクオリアの違いに気づけないから円滑なのは理解しているが、本を読んでいると「これはまさしく自分のことだ」と感じさせられる瞬間がたしかにある。
すこし私の過去を話そう。
私は大学生のとき、心身に異常をきたし何もできなかった時期がある。当時なにに苦しんでいたかさえ、もう定かではない。というより当時の自分でもよくわかっていなかったはずだ。
あのころの経験を、今の私が代弁することはできない。できないし、その資格もないが、私を除けば語りうる人間がいないから語ることにする。
漠然と「周回遅れ」のような感覚がずっとあった。
周回遅れ。べつに同じトラックをぐるぐる走っているわけでもない。競走をしているわけでもない。というか、ゴールなんて人それぞれ違う場所にあるし、そもそも同じ世界を生きてはいない。
しかし、そういったことを大学生の目線から気づくのは難しい。「レールから外れる」なんていうと、真っ当に生きているすべての人に対して失礼かもしれないが、当時の私はレールから外れないように必死だった。
なんとか踏みとどまろうとカウンセリングにも行った。
その施設の待合室には利用者が自由に書き込めるノートがあった。わけもわからず調子を崩した自分と違って、必死に生きようとしたうえでの苦しみが、苦しいほどにびっしり書かれた黒の密度が高いノート。このときもやはり、周囲の人間が自分よりずっと大人びて見えていた。
それからだいぶ時が経って、今はあのころのような痛みはなく呑気に元気にやっている。
結局レールを外れたかどうかでいえば、まあ外れた寄りだと思うけれど、幸いにして今の私はレールがある種の幻想だと知っている。
だけど、あの時あのノートを開かなかったら、私は物書きになりたいとは思わなかっただろうな。
安易に都合よく解釈しなおすのは、過去の自分に対して誠意に欠けると思う。
でも、あのノートを読んだから、今の私があるのは紛れもない事実だと認めざるを得ない。
このブログも源流をたどれば、あの読書体験からきているはずだ。
そう――、今回この本を手にしたのも、まさにブログのための執筆が滞っていたからだ。
書けないから音楽を聴いていたら(因果が逆かもしれない)、YouTubeのおせっかい機能がYOASOBIの「UNDEAD」を選曲した(グッジョブ!)。
そうして、アニメ『〈物語〉シリーズ』を思い出した。過剰なまでの言葉遊び、踊りだすようなモノローグ、芯の強い登場人物たち、どこか哲学的なストーリー……。あの世界観にふれれば、うずうずするほどに書きたくなってくるかもしれない。
そういえば、西尾維新の小説はまだ読んだことがなかった。それで一冊で完結する作品から、本作を見つけた。候補をさがす過程で同氏が速筆らしいということを知ったのだが、この本の紹介文にはこんな一節がある。
ただしそれでも、ひとつだけ言えることがある。僕はこの本を書くのに、10年かかった。
出典: 西尾維新『少女不十分』(講談社文庫)裏表紙より
10年――。それだけの歳月がかかっても、最終的には本になった。
その10年をつなげたものが知りたくて、私はページを繰った。
ネタバレはしたくないので、内容への言及はしない。
だけど、出会えてよかったと心から思える作品だった。
気づかないだけで、私たちの生活はちいさな物語であふれている。それこそ太陽光や雨みたいに降り注いでいると言ってもいい。
だが、それらを繊細にキャッチして、言葉にしてくれる人がいないと物語は生まれない。そして、その言語化の過程は安いものではない。
では、なぜそんな大変なことをするのか。
それはひとえに筆を持つ者もまた誰かの文章に打たれた者だから、ということなのだろう。
そのことに思い至って、なんだか胸が熱くなった。
読みたくなったらご自身で読んでみてほしい。
あいにく、あなたと私は持っているクオリアが違う。私がどれほど言葉を尽くしても、この熱量はそのまま伝わらないかもしれない。しかしそれは同時に、あなたにしか見出せないおもしろさがあることも意味している。
『〈物語〉シリーズ』のテイストが好きな人なら、楽しんでもらえると思う。
事件のあとのUに想いを馳せてみる。
こうした想像をするとき、世界の境界があいまいに解けていくのが好きだ。
すこし眠くなってきた。
夜も落ち着いて、こどものいる家庭では読み聞かせの時間かもしれない。
そんなことを思いながら、またひとつ、ネットの海に漂流瓶を放ってみる。
講談社文庫のページはこちら

