『おいしいごはんが食べられますように』高瀬隼子:変わらない彼らと、考え中の私

高瀬隼子著『おいしいごはんが食べられますように』(講談社文庫)の書影。

 胸をなでおろしている。
 このブログがネタバレなしのスタンスでよかった。
 私の内側を開示せずに済んで、心底ホッとしている。

 三人のうちの誰に一番共感できるか、なんて書きたくない。
 誤解しないでほしいのだが、夢中になって読んだし、読み味の悪い本というわけでもない。むしろ誰かと語り合いたくてしょうがない。

 気心の知れた仲間内で感想を言い合ったら面白いと思う。
 言外の思想が引きずり出されそうで、議論の甲斐があるだろう。

 これがネット上のコンテンツでなければ、もうすこし立ち入った話をしたに違いない。
 しかし先にも言ったとおり、この本について熱く語るうち、その弁舌に自分の深いところにあるものが滲み出てしまう気がする。そういうリスキーなアウトプットは、語っているうちは無性に楽しく、終わってしまえば取り返しがつかない。
 ここはブログであり、いろんな人の目にふれることを想定している必要がある。
 飲み屋で友人たちとしゃべるときと同じ態度ではいけない。


 最近、“到達の誤謬”ということばを覚えた。
 目標の達成さえすれば充足感がずっと得られる、という思い込みのことをいうらしい。
 あの大学に合格すれば、楽しい毎日が待っている。
 このプロジェクトさえ終われば、心穏やかな日常が戻ってくる。
 マイホームで暮らせば、満たされた気持ちで生活に向き合える。
 このへんにしておこう。加害的な立場にいるような錯覚を感じた。

 「目標」と「永続的な幸福感」とはちょっと別だが、こんな例もある。
 大人になれば、ちゃんとできると思っていた。
 ああ――。思っていたよ、大人になる際の際まで。

 かつての私の観察眼が未熟だったのか、周囲の大人たちが規範的だったのか、あるいはその両方か。
 とにかく、今の自分が年齢に見合うレベルでちゃんとできている感じがしない。
 とりわけ己の人間的な小ささを自覚する瞬間は、ひどくげんなりする。
 その瞬間がやってこないように、人づきあいに消極的になっている。ということはさすがにないだろうけど、完全に否定することも出来ない。少なくとも、場数の不足のせいで下手っぴなのは否めない。

 すこし逸れてしまったが、人間関係の難しさの話がしたい。

 第一印象は大事だ。
 いいところはなかなか見つからないが、悪いところは驚くほどに目立ってしまう。
 そして一度嫌いだと思ってしまえば、嫌な部分しか見なくなる。見えなくなる。
 人を好きでいるにはたくさん条件が必要なのに、嫌いになるにはひとつ理由があればいい。
 あえて極端に書いた部分もあるが、こうしてみると、人が他人に好意的な印象をもつのがいかに難しいかわかる。

 嫌いの度合いが一定値を超えると、同じ空間にいるのを避けるようになる。
 それが無理でも、ほんとうの意味でのコミュニケーションは拒むようになるだろう。

 良好ではない人間関係には面倒くささがある。
 それを面倒くさがると、さらに大きな問題になってやってくる。
 理解はしていても、面倒くささの物質量は1molも変わらない。

 結局はどちらの面倒を選ぶか、だと思っている。
 コミュニケーションを拒み続けると、トラブルにかたちを変えて面倒が降りかかってくる。
 そうならないためには意思をすり合わせる必要があるが、そのプロセスは果てしなく面倒くさい。

 どちらがいいかは好みの問題だろう。
 ビーフでも、チキンでも、食べたいほうを。それと同じ話だ。

 私は気に入ったほうばかりを注文する人間だから、もう一方を知らないでいることが多い。
 それに対して、特になんの感慨も抱いていない。
 つまりそういう自分を特別好きでいるわけでもないし、損な質だとも思わない。
 けど、こういう読書体験をすると「“あえて”を選んでみようかな」という気持ちが湧いてくる。
 自分の感覚と違うほうには、自分ではない誰かの目線には、いつも新しい発見がある。

 「いいや。やっぱりやめておこう」。
 逡巡を終える一秒前の自分は、実はちょっと好きかもしれない。



講談社文庫のページはこちら

タイトルとURLをコピーしました